銀英伝?
2009年02月01日(日) 21:15
先日、銀河英雄伝説? EX をヤフオクで購入。

お値段はだいたい12,000ぐらい

チン? PUKは30,000ぐらい。もうゲームってレベルじゃないですね。



とりあえずプレイして思ったことは、



































gin


リヒテンラーデ公の顔グラが微妙(泣)



個人的に道原版のリヒテンラーデ公が最高。
三國志人物解説〜田豊
2008年12月21日(日) 14:22
今回は袁紹配下の不遇の知将・田豊です。

田豊 字 元皓
(でんぽう ?〜200年)
【別駕】
鉅鹿郡の人とも勃海郡の人ともいわれる。

生まれつき人並み優れた才能を持ち、博識であったので州の人々から重んじられた。
初めは茂才に推挙されて侍御史となったが、宦官の専横を嫌い、官を捨てて帰郷した。

190年、袁紹が反董卓の義兵を掲げる。
191年、袁紹が韓馥を脅して冀州を奪った。
このとき、田豊は沮授や審配と共に韓馥に仕えていた。
袁紹
は田豊を丁重に扱い、別駕に任命した。

199年、曹操が反旗を翻した劉備を討伐した。
このとき、田豊は曹操不在の間に一気に許を襲うべしと進言した。
しかし袁紹は末子・袁尚の病気を理由にこれを退けた。
田豊は
「こんな好機を子どもの病で逃すとは・・・」
と悔しがったという。

200年2月、袁紹は郭図・顔良らに白馬攻撃を命じ、自ら黄河を渡り黎陽に入ろうとした。田豊はこの無謀を諫め、
曹操は用兵が巧みで、兵力が少ないとからと侮ってはなりません。持久戦に持ち込んで兵事と農事を整え、敵の虚に乗じて奇襲部隊を派遣すれば、敵は疲れ果て、2年もしないうちに勝てましょう。この一戦で決しようとして思うとおりにならなければ、悔いても無駄になってしまいます。」
といった。

しかし、袁紹はまたも彼の諫言を退けた。それどころか、諫言した田豊を投獄してしまったのである。
そのうちに形勢は逆転し、顔良・文醜が戦死。10月には袁軍は雪崩をうって敗走した。
兵士達は
「もしも田豊がいたならば、こうした憂き目に会うまいに・・・。」
と嘆いたと言う。
袁紹
自身も配下の逢紀
「田別駕にあわせる顔がない・・・。」と語った。ところが田豊と不仲であった逢紀
「田豊は将軍の敗走を聞いて手を打って喜んでおります。」と讒言し、これを真に受けた袁紹は田豊を殺害した。

始め、曹操は田豊が従軍していないことを知ると、
袁紹は必ず負ける」と言い、勝利した後は
袁紹が田別駕の計を用いていたらどうなったか分からない。」と田豊を高く評価している。

また、彼は献帝の奉戴を早くから袁紹に勧めていたが、実現しなかった。

統率 ★★☆☆☆
武芸 ★☆☆☆☆
政治 ★★★☆☆
戦略 ★★★★★
戦術 ★★★☆☆
人望 ★★★★☆

三國志?での能力 統率58 武力39 知力95 政治90

コメント
能力の配分は管理人の独断で決めています。能力に不服がある方はコメントでどうぞ。
議論した上で変更します。


幕僚タイプなので統率は低いと思われる。
武芸はできなかったと思われる。
政治は別駕という職から見ても、そこそこできたのではないか。
戦略は★5にしました。献帝奉戴という策、持久戦+奇襲策など数々の献策は理にかなったものでした。
戦術はそこそこあったのでは?曹操にも評価されていますし。
人望は州の人からの人気や兵士からの信頼を考慮して5つといきたいところですが、逢紀や袁紹に嫌われたところから1つ少なくしました。


徹底した能力主義の曹操から高い評価を受けるというのは、彼が優秀な人物であったことを証明する最たるものでしょうね。





三國志人物解説〜法正
2008年11月16日(日) 22:15
久々の更新。本日は諸葛亮からも実力を認められていた法正です。


法正 字 孝直
(ほうせい 176年〜220年)
【尚書令、護軍将軍】
法正は孟達と同郷の人である。
饑饉を避けて蜀へ行き、劉璋に仕えた。

劉璋のもとで軍議校尉となるが、それ以上は重用されない。
張松と共に劉璋の愚痴をこぼす日々が続く。

208年、荊州に南下してきた曹操に使節として張松を派遣する。
ところが、曹操は張松をまともに相手にしなかった。
これを恨んだ張松は、劉璋に劉備と結ぶよう進言する。

この劉備への使者として法正が選ばれた。
帰還した法正は劉備を称賛し、張松と共に劉備を盟主として迎え入れようと画策する。

211年、曹操が張魯討伐に乗り出す。
張松は、劉備の手を借りて曹操より先に張魯討伐を行うべきだと進言する。
法正と孟達は4000の兵を率いて荊州に赴き、
「あなたの英才をもって、劉璋の惰弱につけこんでください。張松が内部から呼応します。」と計画を伝える。

214年、成都が陥落する。
法正は功績ありと判断され、蜀郡太守・揚武将軍となる。
このとき法正は、劉璋時代に恩義のある人には厚く報い、逆に恨みのある人には報復のために殺害したという。

この法正の行為を横暴だと諸葛亮に訴え出た人がいた。
ところが諸葛亮
「この進退ままならない時に、法正のおかげで蜀を占領できたのだ。それを思うと、法正の行為を禁じることなどできない。」と答えた。

217年、法正は劉備に漢中侵攻を進言する。
曹操が益州に侵入しなかったのは内憂があるからです。夏侯淵・張郃はたいした器量もなく、これを討てば簡単に勝利できます。天が与えた好機を逃してはなりません。」

219年、漢中を占領。劉備が漢中王を名乗る。

漢中攻略の際、劉備は味方が敵に押されているのに業を煮やし、退却を許可しなかった。
矢が雨のように降り注ぐなか、法正は劉備の前に立ちはだかる。
劉備
は矢が当たるから避けるように注意する。
ところが、法正は
「殿でさえ矢石のなかにおられるのに、引き下がることなどできません。」
と拒み、ようやく劉備は一時退却を許可した。

220年、45歳で生涯を終える。

夷陵の戦いで劉備が大敗した際に、諸葛亮
「孝直が生きていたら、殿を制止して東行させなかっただろうに。たとえ東行したとしても、危険を避けることが出来ただろう。」と法正の死を嘆いている。

統率 ★★★☆☆
武芸 ★☆☆☆☆
政治 ★★★☆☆
戦略 ★★★★★
戦術 ★★★★☆
人望 ★★★☆☆

三國志?での能力 統率81 武力48 知力95 政治75

コメント
能力の配分は管理人の独断で決めています。能力に不服がある方はコメントでどうぞ。
議論した上で変更します。

統率力は兵を指揮したということなのでそこそこあったと思われる。
武芸はダメでしょう。謀臣タイプですからね〜。
尚書令や蜀郡太守に任命されるということは、政治はそこそこできたでしょう。
戦略眼はピカイチだと思う。劉備を迎え入れて漢中攻略というように、立てた計画は完全に成功してます。
戦術に関しては、劉備に退却を許可させるなど、戦の流れや駆け引きは心得ていたのだろう。
人望は星二つにしたい所ですが、劉備の信頼や張松との友情を考えて三つにしました。




世界史教科書での三国志の記述
2008年10月22日(水) 23:58
高校世界史の教科書や参考書で三国志の記述を探してみると、実に寂しい・・・。


首都:洛陽
曹操の子・曹丕が建国

★九品中正法を定める→中正官を任命して地方の人材を九等分して中央に推薦させる。

★屯田制

265年に晋に帝位を譲る


首都:成都
劉備が建国
丞相・諸葛亮の死後衰退
263年に魏によって滅亡



首都:建業
孫権が建国
280年に晋によって滅亡

一応、これが高校世界史中の三国志記述(結構詳しいバージョン!)です。
まあ、世界史的に見たら三国志ってたいして重要な時代じゃないのかも・・・。

・・・・と時間しのぎのような更新をしてしまって申し訳ありません。
出来る限り更新していきます。
多忙ですね
2008年10月22日(水) 23:49
まあ、基本的にこのブログはまったり更新中なので、気長にお待ちください。

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